ごはんを作るって、私にとって生きるっていうことの暗喩だと思うのね。人間、別に自分でごはんを作らなくったって、コンビニで買ってきてもいいし、どこかで外食しても生きていけるんだけど、そこをあえて、材料を買ってきたりあるいは冷蔵庫の中の残り物を利用したりして自分で献立を考えて、包丁で野菜を刻んだり、鍋でぐつぐつ煮たりして、料理をする。できあがったものをおいしいとかまずいとかいいながら食べる。ひとりで食べる時もあるし、だれかに食べてもらえば幸せは2倍。その人のために少しは役に立ってるかもしれない。とにかく人間、食べなけりゃあ絶対に生きていけないし、どうせ食べるなら確固とした愛のあるものを食べたい、それは自己愛でもいいし恋人への家族への愛でもいい。
そして、料理の宿命として面白いなと思うのが、料理それ自体はとても刹那的だということ。熱いスープはあっというまに冷めちゃうし、どんなにおいしいものでも腐ってしまえば見る影もなくなってしまう。CDや映画のフィルムのように、料理の味やシチュエーションそのものを記録しておくメディアってないと思うのね。なのに、あるいはだからこそ?おいしかったという記憶や、おかあさんの味とかは忘れることがない。まるでそういった記憶をつかさどる器官が、その料理の栄養から成り立っているかのようですな!
人間はやっぱりただただ生きていくことはできない。理論的には食欲と睡眠欲と性欲が満たされていれば、生命を維持することはできるのだろうけど。そんなの分かりきったことなんだけどね。生きるってそれ自体は、料理のようにとても刹那的で、睡眠だってセックスだってやっぱり同じで、ただただそれを繰り返してるってだけのことなんだけど、でも、私が生きるっていうのは、その繰り返しの中に、自分でこの手で意味を見い出して(つくり出して)いくってこと、それがごはんを作るっていうことと相似形をなしているのです。
そして、料理の宿命として面白いなと思うのが、料理それ自体はとても刹那的だということ。熱いスープはあっというまに冷めちゃうし、どんなにおいしいものでも腐ってしまえば見る影もなくなってしまう。CDや映画のフィルムのように、料理の味やシチュエーションそのものを記録しておくメディアってないと思うのね。なのに、あるいはだからこそ?おいしかったという記憶や、おかあさんの味とかは忘れることがない。まるでそういった記憶をつかさどる器官が、その料理の栄養から成り立っているかのようですな!
人間はやっぱりただただ生きていくことはできない。理論的には食欲と睡眠欲と性欲が満たされていれば、生命を維持することはできるのだろうけど。そんなの分かりきったことなんだけどね。生きるってそれ自体は、料理のようにとても刹那的で、睡眠だってセックスだってやっぱり同じで、ただただそれを繰り返してるってだけのことなんだけど、でも、私が生きるっていうのは、その繰り返しの中に、自分でこの手で意味を見い出して(つくり出して)いくってこと、それがごはんを作るっていうことと相似形をなしているのです。